まず、初めに「電気ってそもそも何か?」という基本的な質問から。
結論から言えば、「良くわからない」です。
「それじゃぁ駄目じゃん」と言われそうですが、事実なんだからしょうがないし、しかも、「それが何かが解らなく」ても「それの性質が分れば十分利用できる」ので、「それでもかまわない」という考え方もできます。
実際、自分が普段見ている、「テレビはどんなものか」を、きちんと説明でき(つまり、それが何かを十分に理解してい)なくても、普通にアニメは見る事(つまり、それを活用する事)ができるわけで、電気に関しても「それは何か?」という質問には答えられなくても、「それがどの様な性質をもっているか?」という質問には答えられるし、それだけで、十分に役にたつということです。
電気の歴史年表によると、紀元前600年頃にターレスという有名な哲学者が琥珀(1)と毛皮を摺りあわせるとその後で、その琥珀がチリを引き付けるという現象を報告しているそうです。
これは、後に、摩擦電気 (静電気現象)として知られるようになります。
その後、1800年にボルタ(2)が電池を発明し、定常的な電流を作る事ができるようになって、電流の研究がされるまで、2400年間、電気の性質の研究は、静電気だけに限られる事になります。
髪の毛をプラスチックの下敷きで擦り合せると、擦り合せる前までは、そうではなかったのに、髪の毛がプラスチックにくっつくようになります。
また、髪の毛同士は、くっつかず、離れようとします。
「電気とは何か」と同じように、「なぜ、そうなのか?」は解りませんが、もし、
電気には + と - があり、+ と +, - と - 同士は反発しあうが、 + と - ( - と + ) は、
引きあう
というふうに「説明する」と、「上手く説明できる」ようになります。
そこで、「電気とはそうゆうものなのだ」と「ここではとりあえず、考える事」にします。
つまり、髪の毛とプラスチック下敷きを擦り合せるとどうゆうわけだか、髪の毛は + の電気を帯び、プラスチック下敷きは - の電気を帯びるようになり、髪の毛と、プラスチック下敷きは、+と-なので引きあうし、髪の毛同士は、+と+なので、離れようとすると、説明する事ができるようになる(3)わけです。
さて、擦り合せて、電気を帯た髪の毛とプラスチックは、しばらく放っておくと、擦り合せる前のように互いに反発したり、引きあわなくなったりします。
なぜ、このような事が起きるかを説明するために、「電気の元」があると考えてみましょう。
つまり、プラスチックには、もともと電気の元が隠れていたのだが、擦りあわせる事によって、その電気の元がプラスチックからはなれて、髪の毛についた。そうすると、髪の毛は、「電気の元」が増えたので+に、そして、プラスチックの方は、「電気の元」が少くなったので-になった(4)と考えるわけです。
そして、電気の元が不足したプラスチックが、髪の毛に移った「電気の元」を取り戻そうとして、引き付けると説明すれば判り易いわけです。
では、実際に「電気の元」はあるのでしょうか?現実の世界では、それと同じ振舞いをするものに電子があります。
先程の摩擦電気も、電子が髪の毛から、プラスチックに移動したと説明され、そして、その電子が戻る事によって、また、元の状態になると説明されるわけです。
物をどんどん細かくしてゆけば、それ以上分割できないものになると唱えたのは、ギリシャのデモクリトスで、それを原子 ( atom : アトム )(5)と呼びました。
ところが、実際には、さらに、原子の中心には、原子核(陽子と中性子(6)からなる)と、その周辺に電子がある事が知られています。
そして、電子は初めから-の電気を帯び、陽子は初めから+の電気を帯ていて、その量が同じである事(7)が解っています。
物質は、この電子と陽子が同じ個数だけ組合された原子から作られるので、普通の状態では、陽子の個数と電子の個数が同じなので、原子が帯びている電気は±0で、中性の状態といえます。
ところが(摩擦などで..)電子が原子から飛び出し、別の所へゆくと、その原子は、陽子の個数が電子の個数より多くなるので、+の電気を帯ることになります。
ただし、気をつけて欲しいのは、電子はあくまでも「電気の元」のように現実の世界で振る舞っていますが、「電気そのもの」と電子は異ります。
電子は、いつも電気を伴っていますが、実は、電子を伴わない電気、更に言えば、「何も伴わない電気」もあります。
つまり、電子はいつも電気と一緒ですが、電気は必ずしも電子といっしょじゃなくても構わないわけです。
以下の話では、電気が移動している時には、実は、電子が移動していて、その電子の電気が移動しているのを見ている事が多いよって話です。
電子が-の電気を、陽子が+の電気をもっているのに、中性子は、電気がないので「中性(電気を帯ていない)子(粒子:小さな粒の事)」と呼ぶわけです。
逆に電気を帯びている粒子(電荷を持つ粒子)の事を荷電粒子と呼びます。だから、電子や陽子は荷電粒子だけど、中性子は、荷電粒子ではありません。
電気を帯たものがもっている電気(の量)を電荷(量)と呼びます。
電気に関係する現象は、電気を帯ている何か(電子だったり陽子だったり、あるいは、電子が離れてしまったり余分に取り込んでしまった原子(これをイオンと呼びます))が移動して起きるのですが、意味があるのは、その何かの帯ている電気の量が問題なので、その電気の量だけに着目して話をしたい場合は、電荷という言葉を使います。
電気を帯びた二つの物がある(例によって、それがどんな物が興味がないのであれば、それが帯びている電気の量である「電荷がある」と表現します。)と、その符号(±)によって、引き当ったり、反発しあったりするわけですが、ようするに、何らかの力が働くようになるってこと(8)です。
その力の事を「クーロン力」と呼びます。
その力の大きさですが、それは、「電荷の量(9)に比例し、距離の二乗に反比例する」という性質をもちます。
つまり電荷が二倍になれば、その電荷に働く力は、二倍になり、距離が三倍になると、その電荷に働く力は、1/9 ( 9 = 3 * 3 )になるということです。
この性質の事をクーロンの法則と呼びます。
この法則は、シャルル・ド・クーロンが見付けた(10)ものです。
どこかに、電荷(11)があるとしましょう。そこに、別に新しい電荷をもちこむと、その新しい電荷は、元々あった電荷の影響(クーロン力)を受ける事になります。
もちろん、そのクーロン力は、元々あった電荷の影響を受けているわけです。
ここで、例によって、
元の電荷 →→→(クーロン力)→→→新しい電荷
と考える代わりに、
元の電荷 →(?)→まわりの場所→(力)→新しい電荷
という「解釈」をします。
つまり、元の電荷が置かれる前のその回りの場所は、当然、何もないので、新しい電荷をもちこんでもなにも起きません。
ところが、元の電荷を置いておくと、それから先は、新しい電荷を「その場所」に持ち込むだけで、影響を受けます。
そこで、「電荷を置くと、その回りの場所が変化する」。「新しい電荷は、その変化した場所に影響を受ける」解釈してみようという事です。
このように、「電荷を置く事により、他の電荷に影響を及ぼすように変化した場所」を「電場(電界(12) )」と呼んでいます。
例えば、敷布を水平に伸ばし、四隅を強力なゴムで壁に止めている状態を考えてみましょう(13)。すると、敷布は当然、水平に、真平らになります。
ここに、小さなビー玉をおくと、少し凹むでしょうが、それ以上は動きません。
そこで真中に、少し大きな、鉄の玉を置いておくとしましょう。すると、当然のように、敷布は、その鉄の玉の所でに凹み、回りの場所もそこを中心に斜めになります。
すると、どうでしょうか?今度は、新しい小さなビー玉を、その鉄の玉の近くに置くと、まるで、そのビー玉が、真中に置かれた鉄の玉に引きよせられるかのように転がり始める事でしょう。
もちろん、床の上に鉄の玉を置き、その側にビー玉を置いた所でビー玉が鉄の玉に近付いていゆくという現象(14)は見られません。
だから、鉄の玉そのものが、ビー玉に影響を及ぼしているというより、上記の説明からわかるように、鉄の玉が敷布に、凹みという影響を及ぼし、敷布が変化したので、その変化した敷布のために、ビー玉が動き始めたと「解釈」した方が、判りやすい(15)わけです。
ここで、鉄の玉が元の電荷、ビー玉が後からおいた電荷、そして、へこんだ敷布が電場と考えればよいわけです。
先の実験で、鉄の玉を床においても床は変化しませんでしたが、敷布は変化しました。
それと同様に、どうも私達がいる、この空間は、電荷を置くと、電場に変化するという特別な性質があるようです。
「電場」と「電界」は異る言葉ですが、「同じ意味」だと思って下さい(共に、英語のElectric fieldの翻訳です) )。実際、電気の説明の中で、「電場」と現れたら、それを「電界」と置き換えても、あるいは、それを逆にした所で意味はほとんど変りません。
ならば、なぜ、こんなややっこしい事をするかと言えば、それは、単に、歴史的な理由と申しましょうか、あるいは、科学者同士にも色々と流儀があって、その間で意見の調整がとれないというか.. (科学者といえ、人間なんだんだよ、もしかして君には少し難しいかもしれないけどねぇ...)。
とりあえず、ここでは、「電場」という言葉で統一しますが、もしかしたら、うっかり、「電界」という言葉を使ってしまう事があるかもしれません。まあ、その時には、僕も人間だという事を思い出して頂ければ...
このような試みは、もちろん、実験として、実際にやっても構いませんが、頭の中で、想像しながら、やることもできます。
こうゆう、頭の中で行う実験の事を「思考実験」とよび、ものを考える上で、大変重要な行為になります。
実際は、鉄の玉とビー玉の間に重力が働くので、近付いても不思議はないのですが、あまりにもその力が小さいので、その力が働いているようには見えないってことです。
逆に、先刻の敷布の実験では、あきらかに、近付いて行くのがみえるというのがポイントなわけです。
先の敷布のイメージをもう少し、続けましょう。重い鉄の玉は、敷布を大きくへこませました。小さなビー玉は小さな窪みしかつくらないでしょう。逆にヘリウムをいれた風船を敷布の下にいれれば、敷布は上にでっぱるはずです。
このように敷布の世界では、もの存在が、凸凹をつくります。
これと同じように+の電荷は山を、-の電荷は谷を作り、+の電荷が大きければ大きいほど、高い山と広い裾野ができ、逆に、-の電荷が大きければ、深い広い谷間が作られる事になります。
はじめの何もなかった時の高さ0とし、また、電荷が置かれている場所の高さは、その電荷の大きさという形にすると、電場は場所によって、色々な高さ(16)になるわけですが、その高さの事を「電位」と呼びます。
+の電荷ができるだけ、「電位」の高い所から低い所に進む(落ちて行く)と考えると、それが「クーロン力が働いているように見える」と「解釈する」事ができるわけです。
また、このような形で、電位という地図を一旦作ると、その上での電荷の振舞いは簡単に考える事ができます。
単に今いる場所から、できるだけ速く、低くなれる方向に移動するということで、その電場を作った、電荷がどこに、幾つ、どれだけの大きさ(電荷量)を持っているか、を「考えずに済み」ます。
つまり、電場という余分に思えるものを新しく導入する事によって、「物事が整理され解り易くなる(17)場面(この場合は、新しく置かれた電荷がどのように振舞うかを調べる)がある」という事です。
場所が持つ「高さ」のことをポテンシャルと呼びます。
色々な出来事は、「ポテンシャルの大きい方から小さい方に進みやすい」と考える事ができます。
こうやって考えると、物が落るのも、磁石に鉄がくっつくのも、プラスの電荷がマイナスの電荷に引き付けられるのも、皆、「ポテンシャルを小くしようとしている」と一言で済ます事ができます。
このように異なる出来事の共通部分を取り出し、一つの表現にまとめる事を「一般化」あるいは「抽象化」と呼び、科学の上で重要な行為となります。
このように物事を理解しやすくするために導入される新しい考え方を「概念(モデル)」と呼びます。物事を理解するために、あるいは、説明しやすくするために、昔の科学者が「都合がよい新しい「何か」を考え出す」という行為が「概念の形成」というわけです。
そして、そのような概念についた名前が「専門用語(例えば、今回の場合は電荷とか、電場とか電位とか..)」なわけです。
ただ、これらの「新しい概念」は、「その科学の分野でこそ便利」なのですが、逆に、「現実の世界から離れている」ために、その科学の分野を知らない人からみると「自分の知っている(現実の)世界と違う」=「解りにくい」=「難しい」となってしまうわけです。
さて、電場に電荷を置くとその影響を受けるわけですが、その影響力(クーロン力)の大きさはどうなるでしょうか?
坂を転げおちるボールの速度は、その坂がどれだけ急か(つまり、高さの変化がどれだけ大きいか)にかかってきます。
それと同様に、電荷が受ける力は、その「電位がどれだけ急に変化するか」という事と関係があるわけです。
電場の二つの場所を考え、その二つの電位の差(つまり高さの差)を考えると、電荷が、その二つの場所を移動する場合の働く力の大きさと関係する(差が大きければ、働く力も大きい)事が解ります。
ここで重要な事は、「電位の高さそのものは関係なく、あくまでも電位差が問題だ」ということ(18)です。
この電位の異る二つの場所の間には、電位の高い方向から電位の低い方向にむかって、その電位差だけの力で、「圧力」がかかっており、そこに+の電荷をおくとその圧力に従って、移動するように振舞います。
そこで、二つの場所の電位差の事を「電圧」と呼び、その大きさ(電圧の高さの量)をEで表します(19)。
電荷を置いておくと+と-が引き付けられて近くに行ます。すると電場の様子はどうなるでしょうか?
電荷の大きさが同じで、符号が異る、二つの電荷が極く近くにある事を考えて(20)みましょう。
その二つの電荷の近くでは相変わらず、斜め(しかもかなり急)になっていますが、遠くからみると、自分の居る場所には、二つの電荷の+の電荷が作る電場(電位を高くしようとする)と、-の電場が作る電場(電位を引くしようとする)が打ち消し(21)あって、「あたかも、その二つの電荷がなかったかのように見え」ます。つまり、電位は、0になってしまうし、その近くもほとんど0と同じ(つまり、電圧もほぼ0 )になります。
私達は、「見える様子(観測結果)で物事を考える(理解する)」わけですから、そのように「無いように見える」のであれば、「ないと同じ」(22)なわけです。
つまり、電荷は、放っておくと、プラスとマイナスの電荷が互いにくっつきあって、あたかも、電荷はないかのように見える状態に落ち着いてしまうということです。
実際に、髪の毛と下敷きも放っておくと、くっつかなくなるというあれです。
現実の世界でも、-の電荷をもつ電子( -の電気を帯びている電子)も、+の電荷を持つ陽子も、原子の中の、ごく近くにある(23)ため、原子の外からみると、あたかも電荷が存在しないかの様に見え、普段、世の中は、電気なぞ存在しないように見える事になる(24)わけです。
「その電子と陽子は、なぜ、さらに近付いて、くっついてしまう( =原子が潰れてしまう.. )とはならないのですか?」という質問は良い質問です(「良い質問」=「答えられない質問」)。
この質問は、原子の構造(電子と陽子(と中性子)から作られている..)事が解ってから、永い事、物理学者を悩ませ、その一部は、原子力という新しい力(原爆の元になる恐しいが、強力な..)の発見を導き、そして、現在では、「量子力学」という、更に新しい考え方を作る切っ掛けになります。
もちろん、「量子力学」の話は、まあ、ここでは(色々な理由で..)割愛させて頂きますが...。
電位差のある電場に、電荷をおくと、その電位差(電圧)に従って、電荷が移動します。
ちょうど、坂の上で、バケツを引っくりかえして、水を撒くと、水が坂を下に流れて、流れを作るのと同様です。
しかし、水が付きると、流れも止ってしまいます。
坂の場合は、また、水を撒くだけで、流れができますが、電場の場合は、電荷が移動することによって電場そのものが変化しますので、坂そのものが無くなってしまう(25)わけです。
ですから、水が流れる(川)という現象は、良く見掛けるのですが、電荷が移動しつづけるという現象(26)は、余り見掛けないわけです。
これは、ようするに、一つ前で、説明した「電荷の移動によって、電位が変化し、電圧がなくなってしまい、電荷が移動しなくなる」という事なわけですが、もし、「電荷が移動しても電位差、すなわち、電圧が維持できたら」どうでしょうか(27)?
すると、その電圧にそって、電荷は常に流れ続ける(28)事になります。
このように「恒常的に一方向に移動する電荷(の流れ)」の事を「(直流)電流」(29)と呼び、その大きさ(単位時間当りに流れる電荷の量)をIであらわします(30)。
「電流」という現象が起きるためには、二つの条件(31)が必要である事に注意してください。
前者の仕組が電池であり、ボルタの発見したもの(32)でした。
そして、後者は、単に一旦、流れたものを元の場所に導く、すなわち、「回路」によって実現します。
回路というのは、単に電気(つまり、電荷、さらに普通は電子)の通り道(電線)をぐるっと輪にし、電荷がグルグルと「回る路」にしたもので、間に電池を挟むわけです。
このように、電池の発明によって、電流という現象が、恒常的に再現されるようになり、このような電荷の移動という電荷の移動(変化)を伴う動電気現象(主に電流)の性質が色々と研究されるようになるわけです。
小人さんがいて、電位の高い所から電位の低い所に移動した電荷を元の場所にせっせと運んでいる状況を思い浮かべてください。
あるいは、一旦坂の下に流れてしまった水をもう一度、坂の上に運んでいるというポンプを考えても結構です。
電池とは、「電(気)の池」すなわち、「電気を溜めているもの」という風に記述しますが、残念ながら、これは名が体を表していません(まあ、電池があれば電圧が維持でき、電圧が維持できれば、電流が作れ、電流を電気と呼ぶ(のは間違いですが、電気を利用する場合は、電流の形で利用するので、「電気を使う」は「電流を使う」という意味でよい)のであれば、確かに、電池は「電流を溜めている」ように見える)。
電池が溜めているのは、「すぐに下ろうとする電位を維持するために働き続けるもの」すなわち、「エネルギー(仕事をする事ができる元)」を溜めています。
つまり、電池に溜められている「エネルギー」を、電流の形で取り出し、他の仕事(例えば、電灯を明るする、電熱機のように物を暖める、そして、モーターの形で、物を動かすなど..)ができるという事です。
電池は、そのエネルギーを化学エネルギー(化学反応に関係して生れるエネルギー。実は食物に含まれているのもこれ。)の形で、保持していますが、その詳しい仕組に関しては割愛します。
さて、電荷(回路)があり電圧(電池)があれば、電流(電荷の流れ)が作られるわけですが、それはどのように起きるのでしょうか?
つまり、水を坂の上に撒いた時に水は、一瞬にして、坂の下に行くか?という問題と同じ話です。もちろん、そんな事はありません。坂が急でなければ、坂をジワジワ、チョロチョロと流れて行ます。
ところで、滑り台で水を流した事は(33)ありますか?その時には、地面より、速く水が流れますね?道路の側溝なども、壁が滑らかになっているので、速く水が流れます。
これと同じように、電荷が移動しようとすると、摩擦が生れるので、一瞬で移動するわけではなく、ジワジワと移動することになります。
問題は、その「流れ難さ」です。単なる地面と、滑り台のように、物には、電流の流れ易いものと流れ難い物があります。
例えば、金属(34)は電気を通し易い(電流が流れ易い)ので、電気伝導体(導体)と呼ばれます。
また、逆に通し難い物もありビニールなどは、ほとんど電気を通さない(電流が流れない)ので、銅線の被覆(35)として利用されます。
このように電気をほとんど通さない(電流がほとんど流れない)物絶縁体(不導体)と呼びます。
何かに電流を流そうとしたときに、その電流の流れ難さの事を電気抵抗(抵抗)と呼び、Rで表します(36)。
つまり、電流を流す路(回路)に、抵抗の大きいものをおくと、同じ電圧の高さであっても、流れる電荷の速度、すなわち、「電流の量」は小くなります。
逆に、抵抗が小ければ、「電流の量」は大きくなります。
電圧は高ければ、速く電荷が動くように働きかけますので、結果的に大きな電流を生みます。つまり、「電流の量(I)は、電圧の高さ(E)に比例し、抵抗(電流の流し難さ)の大きさ(R)に反比例する」わけで、これを、「オームの法則」と呼びます。
折角、電池で電圧を作り、電流を流そうとするのに、そこでに抵抗というワザワザ、電流を流すのを妨げるような事をするか?ですよねぇ.. ?
実は、もちろん、抵抗が目的ではありません。実は、電球(光を作る)、電熱機(熱を作る)、モーター(動きを作る)は、全て、抵抗として振舞います。
つまり、「電流が何かの仕事をする(他にエネルギーを与える、あるいは他のエネルギーに変る)と、その結果として流れが弱まる」わけで、それが、「抵抗」として振舞う(37)わけです。
丁度、水車を思い浮かべてみてください。水は、放っておけば、上から下に落るだけですが、途中に水車をおけば、水車を回すという仕事をし、それと同時に、水の勢いが衰え、結果的に、水が流れる速度が遅くなります。つまり、水の勢いというエネルギーが水車を回すというエネルギーに変換されている(38)わけです。
つまり、私達は、電流(という形の電気エネルギー)を作り、その電流から、様々な形エネルギーを取り出して、生活に役立てているというそうゆう仕組になっているわけです。
この電流が行う仕事の量を電力と呼び、その仕事量をPで表します(39)。
電力が大きいということは、それだけ多く仕事をするので、灯が明るくなり、熱は熱くなり、モーターは速く、あるいは重い物を動かす事ができるという事になります。
じゃあ、水車がなければ、「その水のエネルギーとやらはどうなるんだ?」ですよね?実は、色々と可能性あります。例えば、水が水面に落る水音になるとか(つまり、水車がなければ大きな音に、あれば小さな音になるということ..)。
しかし、最終的には「熱」に変り、水自身の温度を高める事になります。ただ、その温度の上昇はとっても小さいので、普段は、そうとは解らないだけです。厳密に調べると、温度が上っている事を確かめる事ができます。
その単位はW (ワット)です。ワットは蒸気機関を発明(正確には改良..)した人に因んでいます。
ワットの蒸気機関は、熱(というエネルギーによって作られる水蒸気)を動き(という運動エネルギー、いわゆる「仕事」)に変換する働きをもっています。