今日の起床は06:20。一度スヌーズ( 06:09に鳴る。その前に当然、最初のアラームが06:00にも鳴っている)を聴いて、アラームを停め、そのまま二度寝するも、この時間には目がさめるのは、やはり寒いからだ。
窓のカーテンを引いて、窓から屋根の隙間に覗く青空をみる。今日も晴れだ。本当に嬉しい(1)。
学生時代、ルームメイト(2)から勧められた本で、未に読んでおらず、いつか読まねばと思っている本に「自由からの逃走( ``free from freedom'' byエーリヒ・フロム)」がある。
内容は、(当然、読んでいないので..)解らないのだが、このタイトルから、勝手に想像(3)しているのは、「人間は、次に何をしてよいか解らない(freedom)状況を嫌い、それから逃げ出そう(free)とする」という事が書いてあるのではないかということだ。
例えば、学生に「好きにしてよいよ(you are freedom)」というと、彼等は戸惑う事が多い。気の効いた学生は、「何をすれば良いですか?どんな選択肢がありますか?」と尋ねて(そこから逃げよう(free)として)くる。
丁度、テレビで、嵐の公演を流していた事から、日本のアイドルグループの話になった。それから、おにぎりの話が切っ掛けになって、各国のパン食、米食の話に変ったらしい。(8)話題の把握までできなくなったのは単に英語ができないって事もあったのだろうが、一旦、雑音だった、テレビからの声が日本語だと分ると、どうもそれに気を取られるらしい。自分では一生懸命、他の人達の話を聞き取ろうとするのだが、後ろから聞こえてくる日本語に気を取られてしまう。みんながしゃべっている単語まで認識できても、それから、文が作れなくなって意味が解らない自分の状況がとても不思議に感じられる。
これって、もしかして、脳の構造が、「言語別に意味単位を認識する部分がそれぞれある」が、「文の意味構造を構築する部分は(言語と独立しているので?? )一つしかない」ので共有できなくなってしまうって事だろうか?
(2010/08/08 11:05)この問題は、ドキュメントにはないがjarだけでなくjarのあるディレクトリもCLASSPATHに設定する事で回避できている。
どうも一部のライブラリが.jar形式ではなく、展開された形で、提供されていたようだ。