朝(?)、研究室に到着すると、最初に行う作業がある。Note-PCの電源をつなぎ、ネットワークを確認し、靴を履き換え、メールを読み、そして、この日記を書く。その間に、コヒーも入れる。
これらの作業は考え方によっては、不要な作業といえる。
たとえば、電源は、点け放っなしにしておけば良い、自宅であれば、コーヒーは奥さんが煎れてくれる(3)。
今日は、とりあえずkvm nodeが動き始めた。これまでも動いていたが、stop / resumeができなかったので、どうしようかと思っていた。
結論からいえば、opennebulaのスクリプトにパッチを宛てる事にしたということだ。
いま、丁度、TVでやっていたフランス映画を見終わった所だ。この意味が分るだろうか?ようするにフランス映画に英語で字幕スーパーが出ているを見ていたということだ。
もし、これが、英語の映画で、字幕がなかったら、恐らく、さっぱりわからなっただろう。
なのに、フランス語の会話に、英語の字幕スーパーが出れば、何となく分るってことだ。
なんとも不思議な事ではないだろうか?
流石に、持ち歩いているNote-PCの電源と、靴の履き換えはしょうがないが... (前者は、DropBoxで十分というつっこみがありそうだ。後者は、どこでサンダルで...というのは、奥さんが許してくれそうもない.. )。
まあ、家から一歩も出ないってのが最良かもしれないけど..。
例の「泣くから悲しい」でもそうだが、人間は不思議な事に、自分の精神を制御するために、一旦、外の事象(泣く、準備をする、ジンクスを守る..)を経由する必要があるという事か?
確かに、寒い朝ベッドから出るには、心の中で、「起きよう」と繰り返すより、布団を蹴って、とりあえず、ベッドから出てしまう方が簡単だ。